これはアンドリュー・カーネギーに焦点を当てた話です。
あなたはUSスチールという会社をご存じでしょうか?
この会社はアンドリュー・カーネギーの会社が成長したものです。
有名なカーネギーが経営する小さい会社とはどのようなものだったか、どのように成長したのか。そのあたりを書いていこうと思います!
それではカーネギーの歴史と一緒に、USスチールの歴史をどうぞ!
カーネギーの人物像
「崩れ行く橋を見て着想を得てカーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称された。立志伝中の人物であり、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪とされることが多い。事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、慈善活動家(フィランソロピー)としてよく知られている。1889年の『富の福音』はフィランソロピーを志す人々への啓蒙書となっている。」(引用元:Wikipedia)https://ja.wikipedia.org/wiki/
カーネギーは資産の多くを寄付に宛てました。図書館、学校、大学の創設に力を入れました。
カーネギーの基礎となったのは読書です。本人もそれを強く自覚しているからこそ、図書館の建設に尋常ではない金額を寄付したと思われます。
カーネギーの幼少期
カーネギーは12歳で綿紡績工場に就職し、1日12時間労働をしました。
その後、13歳でスコットランドからアメリカに渡り、電信配達員の仕事をしていました。
12時間労働と比べ、だいぶ単調な仕事だったのですが、その間にもカーネギーは独学で電信技術について学んでいました。
スコットとの出会い
これがきっかけとなり、上司に昇格をもらい、さらにはペンシルバニア鉄道の副社長であったトマス・アレクサンダー・スコット氏から、秘書兼電信技師としてスカウトされ、彼の下で働くことになりました。
このときに、スコットから経営のイロハや財務を学びとり、鉄道会社の経営者になりました。さらには株についても学び、30歳のときカーネギーは大きな資産を手にしました。
事業開始
そして、カーネギーはこの資産をもとに鉄工所キーストン・ブリッジの経営に乗り出します。
このとき、カーネギーは発明家でもあった事業家のヘンリー・ベッセマーと出会います。彼の製鋼法によって、鉄鉱石から鉄をつくり出す生産工程の工業化が実現しました。
これが40代後半になるときには、鉄鋼業界の最大手になりました。これが1880年頃です。
合併
1900年、キーストン・ブリッジは統合され、アメリカン・ブリッジが設立されました。
さらに翌年には、アメリカン・ブリッジを子会社として、USスチールが親会社として設立されました。
USスチールの成長
1919年、USスチールの成長過程でアンドリュー・カーネギーは逝去します。
そこから、時代の変化と共に成長を続けたUSスチールでしたが、1980年代に入り、子会社の売却を開始しました。
しかし流石なのは、子会社を売却して規模を縮小しても的を絞って繁栄したところです。
2001年にUSスチールは分社化します。アメリカ最大の鉄鋼メーカーのUSスチールはユナイテッド・ステーツ・スチール社として独立しました。
ピークの1950年代と比べると縮小したものの、今でもアメリカ合衆国第2の製鉄会社として地位を保っています。
以上、時代の変化と共に変化したユニクロの成長の経緯でした。
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